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鉄古典獅子の由来と沿革

古老の口伝えによれば、江戸時代慶長の初期(1600年頃)上鉄村に
疫病が流行したので当地の旧家、屋号「ながや」(現在の鉄町1724
志村久雄氏)の先祖が、今の東京都南多摩郡是政、或いは川崎市多
摩区菅より悪疫退散のために伝え来たものだと言う。
一説には、さいたま県高麗村(現在は日高)とも言われている。その昔、
600年頃中国南朝の時代の文化人が百済(朝鮮)を経由して日本に
帰化した。聖徳太子の指導下にあって飛鳥文化を築き上げた。 
特に仏像その他彫刻に優れた工芸者が多く、各地に集団で帰化して、
日本へ技術を伝えたと言われている。
鉄(くろがね)の獅子面は、高麗狗に似ている処から高麗国人の作とも
言われ、踊りも高麗踊りとも言われた。唄の中に鎌倉や由比が浜の地名
などが入っていることなどから、鎌倉時代に伝えられたとも考えられる。
疫病払いは毎年8月15日の旧盆に行われた。鉄町の宗英寺の建立と
獅子舞の始まりとの関係は分からない。 伝えられる処によれば宗英寺
より舞始め鉄神社で舞納めたという。永い年月中には中絶した時期も
あり、是政より師を招いて再興した事もあったと言われているが資料は
ない。当時獅子を舞う人は、家長若しくは家を継ぐ人以外には教えず、
もっぱら他村への流儀の流れるのを嫌った。今では、後継者の育成に
困難している。
伝統の古典芸能文化を研究している教育委員会の識者は言う。この
舞に用いる3点の獅子は古代の朝鮮風のものである事が注目される。
我が国の獅子頭は、概して中国風のものが巧みに日本化された形式
のものが多いが、中でも鉄(くろがね)の冠獅子は類の少ないものである。
時代は桃山末期から江戸初期と思われるが、角を構えていること、
扇形の眉、そして瞳孔に蝶貝をはめ込んだ点など特徴があり、或いは
彼の地からの伝来か、帰化した朝鮮の工人の作ではないかと思われる。
全体として直線的、幾何学的であり無技巧の硬払さが何とも言いよう
のない伸んびりした、ほほ笑ましさと親しみを感じさせる。


        鉄古典獅子保存会のページでは1991年に鉄町の
        鈴木 勇 氏が編集された「平成3年夏・鐵の古典獅子」
        の小冊子より転載させて頂きました。


鉄囃子連保存会の舞風景


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